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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼 

村上春樹著

評・橋爪大三郎(社会学者)、宇野重規(政治学者・東京大教授)


この小説はざっくり言うなら、主人公多崎つくるの、喪失と回復の物語である。

 つくるは36歳。高校時代の親友男女4人から理由も告げられず、大学2年の夏に突然絶縁されて、そのショックで翌年まで自殺のふちをさまよった。そんな過去と直面すべきだと恋人にうながされ、16年ぶりにかつての仲間を訪れることにする。彼の《巡礼》の旅である。

 この巡礼がかりに2012年夏のことなら、19歳当時の出来事は1995年にあたる。ただし阪神淡路大震災も地下鉄サリン事件も、作中では1箇所を除き言及されない。阪神や東京から離れた、名古屋の高校生仲間という設定だ。

 薄いパイの皮が何枚も積み重なった、ミルフイユという焼き菓子がある。村上春樹の作品もこの菓子のように、多層からなるのではないか。多崎つくるの喪失体験が、地下鉄サリン事件と関連するという暗示は、ひとつの薄皮だ。ほかにも色彩や音楽や、食べ物や宗教や、作品のささいなディテールが多層的に仕掛けられている。それを多層のまま味わうのが、読者の醍醐味である。


 作品のどの層に反応するかで、小説の印象はまるで違ってくる。筋だては、あまい青春小説のようである。夢のシーンや怪異譚の挿話から、心の闇を読み取るひともいる。登場人物がつぶやく哲学的アフォリズム(寸言)を、ビーズのようにつなげて思想を読み取る読者もいる。1995年の事件の暗示も、そんな層のひとつ。だがどれも深追いされず、あっさりとした暗示のまま作品に多層的に埋め込まれている。

 東京に進学し自由が丘に住むつくるは、東京工業大学の学生なのだろう。鉄道、特に駅マニアの彼は、鉄道会社に就職して駅を「作る」仕事。恋人にオタクと思われないかと気にする。サリン事件は、駅を「壊し」た。そのあとつくるは、駅を「作り」続ける。人間関係にうまくコミットできず、ミルフイユのように多層的で断片的な現実を生きることしかできないつくるは、巡礼の果てに孤立が自分の咎でなく、赦されているのかもしれないと予感する。単純なみかけの裏に奥行きが隠れていて、本当のところを掴ませない、適切に評するのがむずかしい作品に仕上がっている。(橋爪大三郎)

前に進もうとする姿

 「もう後戻りはできない」。この小説の登場人物のセリフであり、最後になって主人公の多崎つくるが再び口にする言葉である。

 かつてのつくるには、戻るべき場所があった。「自分は今、正しい場所にいて、正しい仲間と結びついている」、そう信じることができた。しかし、そのような場所は失われ、「完璧な共同体」と思われた親友たちとの関係は損なわれてしまうことになる。

 やがて36歳になった主人公は、恋人となった女性に励まされて、封印されていた歴史と向き合おうとする。明らかになっていくのは残酷な事実であった。そして、かつてあれほど色彩豊かな個性をもっていた友人たちの、輝きを失った姿を見る。

 大切な人が突然、理由もなく主人公の前から姿を消すというのは、村上春樹の読者にとっては、なじみの主題であろう。喪失は理不尽であり、暴力的である。しかしながら、この小説においては、「巡礼」の旅を経ることで、主人公は納得はできないとしても、一定の理解へと到達することになる。

 生き残った人間には、生き残り続ける責務がある。たとえ道を違えてしまったとしても、一人ひとりがそれぞれの場所で、それぞれの道を前に進むしかない。自分の子供の世代にあたる主人公たちを見守る著者のまなざしは温かい。

 読者はこの小説の中に、東日本大震災と津波、そして原発事故についての村上の考えを読みたいと思うはずだ。そして読者がこの作品の中から、何らかのメッセージを受け取ることも不可能ではない。

 とはいえ、著者はあえて抑制的な態度をとっているように見える。そしてむしろ、痛みを抱えつつも、「かたちあるものをつくる」ことで、前に進んでいこうとする人間の姿を描き出そうとしている。そこに著者の誠実さを感じるのは評者だけではないはずだ。


 人が自らの「色」を持ち、あるいは失うとはどういうことか。主人公ははたして「色」を持つことができるのか、それともあえて自分の「色」を持たないことで人を受け入れていこうとするのか。考えさせられる小説である。(宇野重規)

 ◇むらかみ・はるき=1949年、京都府生まれ。著書に『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』など。

 

 http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130515-OYT8T00616.htm            

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